昭和41年07月12日 朝の御理解
宗教の究極のところ、何を導き、どこへ私共を導いてもらい、また導いて事を願いとするかと言うと、やはり言うなら、仏教的に言うなら極楽行きのけいこだと、私そう思うです、ね。信心のけいこをさせてもらうという事は、言えば極楽行きのけいこなんです。その極楽というのは、どういうような所、どういうような事を持って極楽と言うのだろうかと。妙なる音楽が聞こえてきて、腹のうてなの上に座らせてもろうて、百めのおんじきをさせてもらえる世界です。
そういう世界が極楽とまぁ、皆が思うておるけれども、どのような場合でもそういう、例えて言うなら、お粥さんを頂いても、麦の御飯を頂いても、それが百めのおんじきに、勝る味わいに味わえれる。どの様な煩わしいいわば中にあっても、例えば子供が泣いておる様々の騒音の中に、例えばあってもです、それが妙なる音楽に聞こえて来る。どのような中にあっても、そここそ、神様の懐の中だと、こう分からせて頂けれると、いう事だと思うんですね。
そこんところを私は分からずして、そんなら形の上にどのような立派なお家に住まわせてもらい、どのような、いわば三回の珍味を食しておっても、それが美味しくなかったりね。どういうその教訓ににまかれたそのぉ衣装を着たり、お城のような家に住まってもです、そこに一つも満足というものがなかったら、それは極楽じゃない。ですから本当の極楽というのはそういう例えば私は申しますような、いわゆるその中に極楽を見るというか、極楽を感じるというか。
そういう心を開かせてもらい、そういうけいこをさせてもろうて、その先にいわゆる百めのおんじきであり神殿ぎょくろのようなお家であり。本当に勿体無い、有り難いというものの中に取り囲まれておるおかげを頂けれるそういう、生活というものがです。そういうおかげを受けるという事が、本当に極楽のおかげを受ける事だと思うんですね。ああ有りたい、こうも有りたいと。
そういうああも有りたい、こうも有りたいというものが与えられない世界を、私は地獄の世界だと、それぞれの信心のところをです、ああも有りたいこうも有りたいという、いわゆる人間の欲望を、ある程度満たしてやりながら極楽へ導いて下さるというのが私は信心だと思うんです。そして信心を頂かせて頂く内にです、ああも有りたいとか、こうも有りたいといったようなものが無くなる。
それでいて、ああ有りたい、こう有りたいという以上のおかげ、ね。 言うなら、思いかけなかった、当にしなかった思い、言うなら、以上のおかげが頂けてくる。そういうおかげを私は極楽のおかげだと。ああ有りたい、こう有りたいとね。ですから、言うならば、ああ有りたいばかりに、こう有りたいばかりに、一生懸命修行させて頂いてお願いをする、おかげを頂くということは、これはつまり言うなら、小さい信心だと、ね、思い通りのおかげを頂いた。
ですから私共がその、大きな信心をさせてもらうと、小さな信心には行き詰まりがある、行き詰まりところに極楽があるハズはないです。あるものは地獄だけ。けれども、ああ有りたいとか、こう有りたいという願いというものを無くす、私共の心の中から外させて頂いて、いよいよ我情我欲を外して初めて、わが身は神徳の中で生かされておるんだなぁという、いわゆるお道に「いずる?」ところの極楽。わが身は神徳の中に生かされてあるんだという喜びに浸らせてもらう。
そこんところを目指す、そこんところに教導して行くのが私は宗教だと思うんです、ね。昨日から、熊本の富永先生が夕べ遅くまで信心話。その中に、本当に例えばこの、取次ぎ者と言うか、道の御用でも直線しなさなければならないという方達は、本当にその様々な修行をしなければならんが、もうそれを、その修行をもう抱え込んでしもうておられる、そんな感じがする。
言うなら、難行苦行というものをです、もう持っておられる。例えて言うならば、もうそれこそ、私はその病気のない修行信心をよく大変珍しい病気だそうですが、そういう病気をですね、二つ持っておられる。二つとも命に同じ様な。生きておるのが不思議と知っておるというくらいな、見かけはあんなに健康そのもののようにしておられるけれどもです。もうとにかく風呂にもあの、入られませんそのほかに。いつもここには大きな固まりがあって、しかもそれがだんだん大きくなって行くという。
しかもこれがこうあった時には、医学の上で言うたら、もう命がないとまで宣言されておられるというような難行を抱え込んでおられる。先生もうどうぞ、もう12時になったから休みなさいと、で休んでもろうて私また、御祈念させて頂きながら、その事を本当にあの、道の取り次ぎでもさせてもらわなければならん人達にその一つの、まぁ結局、業が深いんですね。そういう業を抱え込んでおる、そういうような事を私はあのぉ、あれは誰、どなたでしたかねぇ。
秦徳三郎先生ですか東京の。もう本当にこの取り次ぎ者というもの、もう世の中のいよいよ捨たれ者、ね。の自覚に立ったモンじゃなからなければいよいよ使われんと。もう自分はもうフンヨウと同じだと、もうクソやら小便やらと同じだと。もう世の中の一番厄介な、何もならない者だと。けれどもそのフンやらがです、沢山の良いものを育てる為の、その働きの出来れる自分になりたい、自分をフンやらに例えておられる。
もうだいたい自分ていうものは、こういうその、難行の深い自分がです、ね、何もその出来る事などないその、自分がです、神様がお使い下さって、これでも御用に使うて下さるならです、もうそれだけでも有り難いんだとそういう、そういう自覚に立たなければ本当のところ取り次ぎは出来んなと。厳しい事でもありゃぁ、本当に大変なお話だなぁと、私は夕べ読ませて頂いたら、富永先生がですね、御神眼に頂くのに、鎧いつも鎧兜をつけたような姿だと。はぁかなり楽な事だろうと思うですね。
さぁ今から戦争に行くと、今から戦いの場に臨むという時にそれは、鎧兜をつけて参りますけれどもです、これはもういつもです。この鎧兜をつけておらなければならないというのはですね、まぁ言うならこげん難儀な事はなかろうと思うです。けれどそういう難儀を何時も自分が抱え込んでおるからです、いつも戦場に臨むような、スキを作らない。ここにスキを作らない所のおかげをまた頂かれる訳なんです。
これは日本の場合でもです、何かちっと難儀を感じておられる時にはもう絶えず金光様ってこう称えさせて頂かないければおられないでしょうが。昨日私共、御本部参拝をさせて頂いても、何処の何処をいたしましても、どういう自動車に乗せて頂きましても、私はまぁだ、かって楽しいなぁと思うた事がないと言われるです。こしのとっても、いつもずうっとその、病気で不愉快な思いをしておるのです。いつこの病気がもうその、死と対決しなければ分からんといったような状態ですからね。
いつもその、安心しておられないと言う。ね、私共であるやら、やはりその、御本部参拝の汽車の中で、本当に嬉しゅう楽しゅうその、旅行が楽しいんです。どうもないからですよ。ね、例えば、よしなら難儀を感じておってもです、もう好きなモン同士、信心、信者同士が、まぁその色んな信心話をしていくなら、もうその、そげな悩みな忘れてしまうぐらいである。ところがそれを忘れようと思うても忘れようがない、いつも抱えておるものだから、病気という難儀を。
いわゆるいつも不愉快だとこう言われます、不愉快なその感じだとこう言う、ね。昨日でしたか、原さんがお届けされるのに、今あの、片島千という先生のお書物を何べんも繰り返し何べんもか読みおられると言うんです。 非常に女の先生でお徳を受けられた先生の話なんです。この方がもう本当にもう、世の中の病気と言うものを一人で抱えておられるというくらいな病弱な方です。けれどもあれだけ長生きのおかげを頂かれるだけではなくて、あれだけの沢山な人が助かった。
いわば、お徳を頂かれておる、ね。ある時なんかは、もうとにかくその病気が気にして苦しくてたまらん。ご神前に出て、はぁもう只今、今、只今でもよろしゅうございますから、命を断って下さいと、この苦しみ絶えられない。ご神前にその事を奏上され、どうぞ命を引き取って下さいと言うて願われた。そしたら神様からです、お伝えがあった。その方、片島千が苦しむとです、氏子が助かると仰った。
お前がそうあるからこそ、お前がもう何時もかつも金光様、金光様とこう、念じ続けるのだと。お前がここでスキを作るのか、言うならば鎧兜をいつも着けておるんだと。お前がそうあってくれるとです、氏子が助かるんだと。私はこういう苦しみを苦しませて頂きゃぁ難儀な氏子が助かるのならば、そんなら苦しんでも良かというその腹でその、こは辛抱させて頂いたといようなところを読ませて頂きながら、感動したというお届けをなさいました。確かにそうなんです、ね。
もうあれは苦しいだけならですね、とてもほんなこて死んどるかも分からんですね。けどお前が苦しみゃです、子供が助かるとこう言う。お前が苦しかろうけれどその為に、世の中がこの様に明るくなるとか。ね、それを実証が出来るから、その苦しみもまた楽しいという事になるのですよね。何の為に鎧兜を着けておるかと、ね。刀で切られても切られる事がない。ね、槍で突かれても、その甲冑で受け取ることがが出ける。
そこで例えばなら、富永先生の場合、そうした鎧兜を着けておるような難儀を背負い込んでおるからです、絶えず生神金光大神様唱えなければおれんのである。この苦しみがこれから難儀な氏子が助かって行く事の為の土台になるのならば、それを厭わんという、私は一つの一大発心をなさってですね、本当に鎧兜を着けておる家の母に、おかげを頂くという事は、心が槍で突かれても突かれんで済む、切られても傷つかんで済む。
私は健全な心を、体はそうであっても、肉体はそうであっても、もう心がそうであるおかげを頂きなさるけいこをなさなければいけない。そういう心を金剛不壊の心という、ね。金剛心、硬い心、不壊の心、ね。どんなにしても壊れない心なんです。ね、そういう何の為に、鎧兜を神様着けさせてござるかと。その金剛不壊の心を、与えたいばっかりなんです。富永とみあきいう氏子にです、真実の極楽を、分からせたいばっかりなんです。ね、どういう事を言われても、どういう事をされても自分の心がいつも金剛不壊であるならばです、それこそ極楽でなくて何であろうかという事なんです、ね。そこんところの体得が出けた時、その向こうにある私は、おかげを極楽と言うのじゃないか。お互いが極楽を求めず楽ばかりを求める。ただ商売が繁盛しさえすりゃぁ、もうそれでおかげのごと思う。ただこの病気が治りさえすりゃぁ、もう極楽のごと思う。
そんな事ちゃない 病気の中に、ね、商売不良の中に、思いにならん事の中に、ね。不動の、いわば壊れないところの心と。そういう確信が持てれる信心、ね、言うならば培われて行かなければならん。そういう物が自分の心の中に出けて行かなければならない。ね、それを私は、例えば現在その難儀っていうものを感じておるんだけども、その難儀のおかげでです、氏子が助かって私が苦しんでおりますけれども、その私が苦しんでおるおかげで難儀な氏子が助かっておりますということ。
難儀なおかげで私がの心の中にこういう有り難い心が開けておりますと、その難儀なおかげでその、難儀様という事のいう様が付けられるようなです、おかげを頂かせて頂く、そういう信心を本当に自分なりに付けさせて頂かなければです、極楽には到達は出来ん。 まぁ言うなら大変その、難しい事のようでございますね。何かとても私だん、そげなん、そげなん心まで、そういうその、おかげを頂かんで良かと。
もう言うならちっと、この目の前に困っておるこれが、じゃぁ解決してもらうとこの繁盛いうような事ではです、これはもうどこまでも、小さい信心だと。いわゆる目先さきの信心だということ。ええごと助かれん、真実、いつも極楽に住まわれるところのおかげというものは、望めない。そういう私は信心で、例えば一生ああいうような事であっては馬鹿らしい。ね、そういう信心を本当に自分の物にするという事はです、言うなら信心を自分の物にするという事がです、ね。
その気になったらですね、確かにその難儀という事の中にも御礼が言えるです。昨日、久留米の笠さんが、朝毎日、お参りになります。昨日お参りして来てからここで、その、お届けなさるんですよ。先生あの、まぁ夕べの月次、前の晩ですね。お月次祭におかげを頂きましてから、本当にもう先生の御説教を頂かせてもらいながら、もうそれどころじゃない、それどころじゃないと思う事ばっかりでございましたと。
実は私はあの事を、昨日の昼からずぅっと心の中に考え続けておったんです。で、先生がああいう御説教を下さってから本当にそうどころじゃないという事をです。椛目の先輩の方達、信心をなされておる方達は、もう十分分かりきっておられる事でございましょうけれども、これがわからんのでございますなというような事を言われるんです。私はまぁそれをですね、私のせん、椛目の皆さんの場合はです、もう十何年も椛目に参りよりなさるが、まぁだここが分かってなさらんごたる顔を皆しておったら、ここは分かりなさりよるハズなのにというような風に響いて来たんです、私には。
どういう事だったかって私あの中に、ね。信心というものは難しいもんじゃないと、ね、信心な見やすいもんじゃけれども、氏子から難しゅうすると。けれどもね、本気にそれを、信心を自分のものにしようという気がなければ、やはり難しいんだと。ね、今日私がいう、信心は自分の物にするという事。信心とはどういう事かと言うと、自分の心の中に混合不壊の心を頂いていこうというような、それが信心なんです。
どんな場合でも真心で生きられる、どんな場合でも有り難く受けられる、どんな場合でも豊かな心で受けられる。傷つけようとしても傷つく事のない心を頂かせて頂くという事なんです、信心とは。だからその信心を本気で頂こうという気になるなら、先生たしかに難しいもんではないという事をです、先生が汽車に乗る、あの例え持って仰った。8時の汽車に乗ろうと思うならやはり7時50分には駅に行かにゃいかんばいと。
それを8時の汽車に乗ろうと思いよるとに8時ごろから出て行きよるもんじゃから、さぁ間に合わんて思うて一生懸命走って行きよる。行ったけど汽車は出とった、これだけ走っとに汽車乗っときゃ良かったところを、汽車は待っときゃ良かったところを、待っときゃええのに、というような事を言うような事ではおかげにならん、難しかきつかと、それじゃ。これは時間の事だけじゃない、もう一事が万事にそうなんです。
本気でその気になる、せっかくあれは、親先生が仰ったのはです、ね、本当の信者、真の信心。 真の信心を目指しよる、真の信者にならせて頂こうと、本気でその気になったら、誰でもなれれるんだと。けれどもそう思わんからなれん、難しいんだと。ね、信者になるという事は見やすいです、椛目に参っときゃ誰でも信者になれる。実は私はこの事をその、あの日は思い続けとったんですと。
テレビなんか見よってもですね、その良いお父さんになる、子供から信用される父さんになるという事を、のような事があの、はぁ、これはいつも先生が仰る御理解のごたると思うてそれを頂いとったと。それどころじゃないなぁ、良いお父さんにならにゃならんなぁ、子供が信用してくれるお父さんにならにゃいかんなと、思うたとこう言う。だからお父さんになるという事はです、結婚すりゃぁ誰でもなられるちいう訳。ね、子供が出来る場合でもお父さんになれるとじゃから。
それでも良いお父さんという事は、なかなかやっぱり難しいと言やぁ難しいのですね。家のお父さんばかりは、もう本当に立派なお父さんだと子供から信用してもらえれるお父さんになるという事はです、本気でそういうお父さんになろうと思やぁ難しい事はなかたい。 子供が信用してくれるようなお父さんになるという事は。陰では悪い事しとる子供に悪いことしたら出けんぞというようなお父さんで信用されるハズはなかちいう事です。
お父さんには誰でんなれる、信者には誰でもなれる。椛目に参ってくりゃぁ信者なんだ、けども良い信者、真の信者になるという事は、いわば難しい事のように皆思うとるけれども、なら本気でなれるという気になりゃ難しい事はない、それは8時の汽車に乗れば、7時50分に駅に行というその気になりさえすりゃぁ、誰でもなれれるんだという事。そげな事は私はあの、感じておったら夕べのあの御理解です。おかげを頂いたというような事を言うておられましたけれどです、ね。
おかげを頂こうと思うなら、信心を頂こうと思うという、その本気の中からです、信者は難しいもんじゃないという事。ね、その難しいじゃない、その信心を頂かせて頂けば自分の心は、それこそあの晩の御理解のように、いつも高いところを飛んでおればいいという事。この世は苦の世だ苦の世界だという世界にうろうろしておる人間があるけれども、自分はいわば、天かけり国かけり飛行機に乗っておるようなおかげを頂く。飛行機に乗るという覚えるということだ、難しい事じゃないて覚えてしまえば。
覚えるまでは難しいかも知れんけれども、覚えてしまえや難しい事はない。本当の信者になろうと、真の信者になろうと。本当の信心を自分の物にさせて頂こうという願いを本当に持てばです、信心は見やすいもんだという事です、ね。そしてその、信心とうの何を、かと言うと、究極のところ、極楽を目指すのである。その極楽というものはです、どのような中にあっても、有り難い事じゃなぁ、勿体ない事じゃなぁ。どのような場合であっても傷つけられない、壊されない。
金銅不壊な心を頂くことなんです。お互いが難儀を感じておるからこそ、必ず生神金光大神様を唱えられるのだ。その難儀が、言うなら鎧兜のようなものだと。それをどうしてこげな鎧を着とかんならんじゃろうかと思うて、自分の難儀を、自分の難儀を自分でいよいよ難儀にしてしまう。私のごたる幸せな者はまたとあろうかと。なら富永先生なんかは、信心を叶えたらそうだろうと思うんです。 本当に私のごたる浮説の者がまたとあるじゃろうか、ね。
ところが、そこんところが分からせて頂いたらです、神様なればこそ、私をいうなら真実極楽に、もう味わいを味あわせて下さる為に神様がこういうおかげを下さっておるんだと。ひとが窮屈なものを着ておるということ、ね。その中に、自分の心を傷つけられない、壊されないで済む心を頂かせて頂こうとする願いに燃え立つ事が、信心に燃え立つ事なんだと。
昨夜、その富永先生のお話を聞かせて頂きながら私が思うた事を、神様頂かせて頂いたら、ね、鎧兜を着けておるようなもんじゃと。ね、これは富永先生の事だけじゃない、お互いの事にもそれが言えるのじゃなかろうか、ね。だからこそすきを作らんで済むのである。いわゆる金銅不壊な心というものが頂ける時です。鎧も脱がせて頂くことが出来るだろう、ね。 本当に百の御食というか、本当に金殿いちどこの本当にこここそ、はすのうてなのうえであろうかというようなです、喜びを動かす事が出来る。ね、
しかもそれはよいごん。それはあの世までも持って行けれるものなのだ。それを教祖の神様は、神徳とこう仰っておられる。神徳は受ければ心配がないと仰る、ね、くぼみがないのです。しかもその神徳はあの世にも持っていけると仰る、ね。この世にももちろん残しておけれるという事、ね。神徳を受ける。いわゆる我身は神徳の中に生かされてあるというその、喜びに浸らせて頂けれる、そういうですね、おかげを一つお互いが見えさせてもらう。
おかげを頂かせてもらう。いつも、そうして、まぁご理解頂いておる訳でございますけれども、なかなかですね、やっぱり痛い痒いがありゃぁ、もうそれを直してもらいたいのがいっぱいなんです。ね、ところがその痛い痒いのある時だから、なければです、そこは実際に分からんという事になってくると、この期を逃した、このチャンスを逃したら、あっという、その事に対する、その事をです、大事にして、その事を通して信心を分からせて頂こうという意欲も、また湧いて来ると思うんですよね。
どうぞ。